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進学通信

2024年7月

教育問答
苦手、嫌なことから逃げずに
あらゆる「経験」から自分を見つけてゆこう

公開日2024/8/31
関西学院中学部
部長 宮川 裕隆 先生

1974年生まれ、滋賀県出身。公立校勤務を経て2002年に関西学院入職、2024年度より部長(校長)。学年主任から、他の管理職を経ず部長就任という異例のキャリアパスを持つ。好きな言葉は「雲の上はいつも晴れ」。趣味は読書と料理で、料理は日曜にまとめておかずを作り置きするほど。

個々に合った学習方法を重視する「個別最適化」が叫ばれて久しくなりました。しかし、関西学院中学部の宮川裕隆先生は、「本当にそれだけでよいのだろうか」と疑問を呈します。その真意はどこにあるのでしょうか。関西学院独自の教育理念や取り組みも交えつつ、「経験」が生み出す、子供たちの可能性についてお話をしていただきました。

「合わない」「やりたくない」 そのなかから見えるものがある

近年の中等教育全般に対して感じられることや、問題意識などがあればお聞かせください。

 気づけば早いもので、私も教員になって二十数年。かつては一人の教員で40人以上の生徒を相手に授業をするのが当たり前でしたが、時代も社会も変わり、より“個”を重視する時代になってきました。いわゆる学びの「個別最適化」です。
 もちろん、一人ひとりに合った教育を目指すこと自体は私も素晴らしいと思いますが、一方で懸念を感じる点もゼロではありません。個別最適化を突きつめれば、学びを一人で完結させることも可能だからです。ただそのとき、他者とのつながりや交わりから切り離された学びになってしまわないか、という懸念があります。
 少し世知辛い話ですが、実際に社会に出て働くようになれば、「これはやりたくない」「あの人と一緒に仕事をするのは嫌だ」などと言ってはいられない場面がたくさんあるでしょう。そんな困難にしなやかに対応していく力も大切です。そう考えたとき、個別最適化は、本当に子どもたち一人ひとりの可能性を伸ばすチャンスになっているのでしょうか。「自分に合っていること(自分がやりたいこと)」以外のものは遠ざけてしまえば、それでよいのでしょうか。「合わない」と思うもののなかにも、気づきを得ることがたくさん眠っているはずです。それを切り捨てていくのは、もったいないですよね。

 たとえば本校では、授業以外の行事や取り組みが豊富です。その一つに、心身を鍛えることを目的とした『全校駆け足』という伝統的な活動があります。週4日、3km以上を走るのですが、実際に生徒の気持ちを考えれば、走りたくない子のほうがほとんどですよ(笑)。でも、まずはとりあえず何でもやってみること。「やりたくないこと」にもチャレンジした経験は、大人になったときにも必ず活きるはずです。

まだ幼さも残る中学生くらいの年代では、そうした経験も大切かもしれませんね。

 そう思います。ほかにも、中学部の『新入生オリエンテーションキャンプ』で実施する『メチャビー』も中学の伝統の一つです
ね。“メチャクチャなラグビー”が名前の由来だと言われていて、水をまいてわざと泥田のようにドロドロにしたグラウンドで、ラグビーに似た競技を行うものです。実際、生徒は泥だらけになんてなりたくないですし、ボールを持ってゴールに突っ込んで行くのは怖いものなんですよ。でも、後ろから仲間が背中を支えてくれると信じているから、思い切って飛び込む勇気が持てるのです。自分が泥まみれになってでも、仲間を支えようとする気持ちや団結心が養えるのです。「自分には合わない、やりたくない」と嫌なことをシャットアウトして、ある意味「個別最適化」しているだけでは、こうした成長は得られないでしょう。

 新入生は、ついこの前まで小学生で、受験生でした。本人も受験勉強を頑張ってきたとは思いますが、それも周りの支えがあったからこそ。受験勉強が最優先の生活で、家族の暮らしも自分を中心に考えてもらったり、優遇されたりしてきた面もあると思います。だからこそ大切なのは、それに気づけているか。最初に申し上げた「人とのつながり、交わり」として、誰かに支えられて今の自分があることを知ってほしいですね。
 中学生は、大人への入り口です。私は、よく生徒に「電車料金は、中学生から大人料金が適用される」という話をします。ですから本校に入学したら、大人になるための第一歩として「自分でできることは自分でする」ことを土台にしつつも、「仲間と共にする」ことを大事にしてもらいたいです。これらの行事や取り組みには、そうした思いが込められています。

自らの勇気と責任、仲間を支える献身と団結力を育む『メチャビー』。

「やってみよう」の精神で誰かを支えられる存在に

そのような取り組みや、その原点となる教育理念は、どこからきているのですか?

 根底にあるのは、キリスト教主義です。学院創立者のW・R・ランバス先生が示した「世界万民のために献身する」という思いや、スクールモットーの「Mastery for Service」(奉仕のための練達)にもあるように、本校は「誰かを助けるために自分をいかに鍛えるか」という考え方から教育がスタートしています。トップやエースではなくても「この人がいてくれて助かった」と言ってもらえるような人物を育てたいですね。自分は誰かに支えられていることを知る一方で、自分も誰かを支えられる存在なのだと気づいてほしいです。誰かの「ありがとう」が自信になることが必ずあると思うのです。このマインドを、入学して最初の段階からしっかり伝えていくようにしています。

そうしたステップを経て取り組む、中2の『青島キャンプ』も、他校に類を見ないめずらしい行事だそうですね。

 瀬戸内海の無人島で行っているサバイバルキャンプです。電気もガスも水道もない島で、3泊4日を過ごします。
 食事を作るにもキッチンなどありませんから、自分たちでカマドを掘って火を起こさなければいけません。水は本土から持ち込むので、量も限られていて貴重です。シャワーは一人1分とルール決めされていますが、もし誰かが水を止め忘れようものなら死活問題です。自分の不注意が、みんなを困らせることになりますから。体力差や得手不得手だってありますが、そのなかでこそ、学校では見えなかった友人の弱みや強みに気づいたり、互いにフォローすることを覚えたりできるのです。このような経験が、どんな場所でも生きていける「たくましさ」や、「何でもやってみようと考える力」になります。

 個別最適化の話に戻しても、あえてそれを悪く捉えるなら「好き嫌いを許している」とも言えるわけです。しかし、本校でそれは認めません。繰り返しになりますが、特に中学の段階では「まずはやってみよう」という姿勢を持ってほしいからです。私たちは、出会いや経験、失敗を通して、強い生徒を育てたい。経験しているからこそ、人は一歩前に踏み出せるのです。

中2夏に行われる『青島キャンプ』。どのような場所・状況でも生きていく力やたくましさが育まれる。

転ばないための手助けより、起き上がれる強さを

関西学院は「中学部は厳しい校風である一方で、高等部は自由度が高い」という印象もあります。これにはどのようなお考えがあるのでしょうか。

 先ほども申し上げましたように、中学生は大人への入り口として「まずはやってみること」を大事にしています。選り好みするのではなく、好きも嫌いも、得意も苦手も経験して、その中から新しい気づきや自分の芯を見つけてほしい。チャレンジを重ねて、基本を身につける期間です。
 対して高校は、中学で身につけたことを土台に、自分で判断する力を養う場、そして大学は専門性を高める場と考えています。このように段階的に教育目的を明らかにし、個性ある教育環境を作っているのが関西学院の面白さだと言えるかもしれません。

中学は種蒔きの時期だということですね。

 そのとおりです。生徒が秘めている可能性は、どこから芽が出るかわかりません。また、蒔いた種がいつ芽が出るかもわからないので
す。もしかしたら、50歳になってから芽が出ることもあるかもしれないですよね。
 だから、失敗したっていいんですよ。むしろ、たくさん失敗すればいいのです。失敗しないことではなく、そこから立ち直る力のほうが何倍も大切なのですから。個別最適化と、失敗や苦手を避けることは、似ているようで違うと感じます。

中学生への教育を「種蒔き」だと考えるうえで、貴校の先生方が意識しておられることは何ですか?

 子どもたちの可能性を決してあきらめないこと、そして自走できるようになったら必要以上に手を出さないことだと思います。たとえば幼い子どもが補助輪なしで自転車に乗る練習をする場面を想像してみてください。ふらつきながら多少は自分で乗れるようになっても、親は心配だからつい後ろから支えようとすることがあります。転んだら痛いですからね。でも、そうじゃないんですよ。痛い思いをすればいい。その痛みが、なぜ自分は転んだのかという気づきや、転ばないようにするにはどう乗ればよいのかという課題を生み出します。中学生とは、言わばこの「補助輪なしで自転車に乗り始める時期」のようなものなのです。

 関西学院中学部は、伝統的に「師弟同行(していどうぎょう)」という考え方がベースになっています。教員も生徒も同じく学び、行動していくという意味の言葉です。生徒に何かを求めるのであれば、教員もそれをやるべきですよね。したがって、先ほどの『全校駆け足』も『青島キャンプ』も、10km(女子7km)を走る『校内マラソン大会』も、教員は一緒に汗を流します。
 それこそ、私だってマラソンはきついし、できることなら走りたくありません。普段の指導においても、生徒に厳しい要求をして「言った以上は自分もやらないと。でも、また自分で自分の首を絞めてしまった」と思うこともあります(笑)。ただ、そこは曲げてはいけません。子どもたちにどのような世界を見せてあげられるかが、大人に問われているのです。

時代や社会が変化しても、人に求められる本質は不変

今後、部長(校長)として取り組んでみたいことや、目指す学校のビジョンをお聞かせください。

 今年度から部長に就任したばかりなので、目新しく話題性のあることをやるというよりは、まずは自分たち(関西学院)が持つ強みとは何なのか、その再確認から始めようと思っています。

 社会全体の流れや価値観が大きく変化するなかで客観的に振り返ったとき、本校の「嫌なことや苦手なことでもやってみよう」
というスタンスは、もしかしたら古いのかもしれないと思うこともありました。しかし、創立以来こんなにも長く、なぜこうした精神や取り組みを大切にしてきたのかには、必ず普遍的な理由があるはず。その本当の価値は何なのかを、現代社会に照らして洗い出していきます。

 もう一つ言えるのは、目に見えやすい成果や実績ばかりを拙速に追わないということです。「(本校で学べば)これができるようになります」というわかりやすい指標も大切かもしれませんが、それよりも、まずは見えない可能性を広げてあげたい。人は、絶対に変われます。生徒は一人ひとり違う自立した人格ですから、私たちは同じ人間を相手にしているのではありません。そういう意味での個別最適化は絶対必要です。私たちは、その多様な可能性に対して、あらゆる種を蒔き続けたいです。
 もう少し具体的な事例で言うと、本校でもグローバル教育にまつわるプログラムが増えてきました。今までやってきたことや変えたくないことと、変化を続ける時代や社会のニーズとのバランスを取って、しっかり考えられる学校にしたいです。

 ただ、社会がどれだけ変わろうとも、活躍の舞台が世界に移ろうとも、根本的に人に求められるものは変わらないと思うんですよ。「人としての魅力や信頼性」はいつ、どこでも通用する強みです。相手のことを理解できて、自分の意見も言えるような人物になってほしいと思います。
 自分の意見が言えるということは、自分を知っているということです。自分を支えるバックボーンや、文化、価値観をメタ認知できているということです。だからこそ、人はあらゆる経験と失敗から、自分を見つけていく必要があります。本校はずっとそれを大切にしてきましたし、これからもそうです。そこは変わることはありません。

毎朝、全校生徒と教員が参加する『礼拝』。