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進学通信

2023年6月

この記事は1年以上前の記事です。

The Voice 校長インタビュー
大切なものを見失わず
学びを他者のために使える
人間性豊かな「大きな人」であれ

時代の変化とともに、暮らしも、学び方も便利になりました。しかし、堀俊彦校長は「合理性・利便性を追求するだけでいいのだろうか」と警鐘を鳴らします。仏教的価値観に基づく「大きな人」「大きな船」という考え方とはどのようなものなのか。同校が目指す「子どもを信じる教育」についてお聞きしました。
公開日2023/7/31
バランスの取れた「大きな人」を育てたい

現代社会と、求められる教育について、先生のお考えをお聞かせください。

 「教育はこうあるべき」という大仰なテーマについて、私に話せることがあるだろうかと恐縮しています(笑)。しかし、それでも懸念しているのは「大切なものを見失っていないか」ということです。社会の変化や改革のスピードは加速する一方ですし、機械やAIに仕事を奪われるといった言説もすっかり定着しています。

 もちろん教育界も、時代の求めに応じた変化は必要でしょう。文字一つ書くのも筆記用具を使わずPC やスマートフォンに入力することも多くなりましたし、そのほうが能率的なのもわかります。しかし一方で、「自分の手で文字を書く」というていねいさが失われつつあるのではないかと思うのです。効率や合理性ばかりを追い求め、何でも機械に任せてしまうのはいかがなものでしょうか。これは文字の手書きに限った話ではありません。全体的に、何かを「自分の力でていねいに作り上げる力」や、そこへ至るプロセスの大切さが軽視されたり、失われたりしつつあるのではないかと感じます。

その「自分の力でていねいに作り上げる力」がなくなっていくことで、どのような弊害があると思われますか。

 極論するならば「人間性の喪失」ではないでしょうか。優しさや思いやりといった、理屈や論理だけでは語れない要素です。

 しかし先ほども申しましたように、現代社会やそれに紐づく教育では、多くのものが合理化され、コピー&ペースト文化が横行しています。最近は『ChatGPT』(人工知能チャットボット)も話題ですよね。これらの根本にあるのは、情報にせよ、知識にせよ、技術にせよ、必要なものがあれば「すでに完成されたものを、どこかから取ってくればよい」という発想であると言えます。

 繰り返しになりますが、そうした技術の革新や時代の変化そのものを否定しているのではないのです。ただ、そこには「修練」がない。キレイでまとまったものは出来上がるかもしれませんが、ただそれだけです。

 こと教育においては、最短距離で必要なものや成果だけを取りにいくことが最善とは限りません。その過程における試行錯誤、特に対人関係のなかで学ぶものは大きいはず。だからこそ、私は思うのです。テクノロジーの進化に合わせた学びと、人間らしいアナログを中心とした、一見非効率的に思える学び……どちらかに極端に振り切ってしまうのではなく、それらがバランスよく同居した学びを大切にしたいです。

 また、そのバランスが取れる余裕のある子どもたちであってほしいですね。拙速に答えを求めるのではなく、面倒な回り道もいとわない、そのような「大きな人」を育てたいという思いが、私、そして本校の大事にしたい教育です。

子どもたちは自分の中に「種」を持っている

そうした心の教育を大事にしておられるのですね。

 そうですね。確かに、本校の進学実績や、入試の難易度が注目されがちであるのはわかります。しかし私たちは、それが学校の魅力や看板だとは思っていません。生徒たちにも、進学率や偏差値などの数字に振り回されてほしくない。やはり「大きな人」を育てたい、それに尽きると思います。

先生のそのような教育観は、どのようにして涵養されたのですか?

 本校の理念や校風が大きく影響しています。実は私は、公立中学校の教員として教育界に入ったのですが、ご縁あって、母校でもある本校に入職することができました。そこで最初に感じたのは、私学はやはり土台となる教育理念がありますから、「教育の『背骨』がしっかりしているな」ということです。

 特に本校は真言宗の仏教校です。学業だけでなく、それ以前の奉仕の心や、体を動かすこと、掃除などを大事にしています。
 
 一方で、それまで私自身もあまり知らなかった仏教的な価値観に触れることで、私の中で変化が生まれてきました。「(学校祖である)弘法大師様の教えを、私たちが引き継ぐのだ」という使命感のようなものが芽生えてきたのです。

仏教の教えのなかで、特に大切にされていることは何でしょうか。

 「夫(そ)れ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。真如外に非ず。身を棄てていずくにか求めん」という言葉があります。仏教の教えははるか遠くにあるのではなく、自分の心の中にある、とても身近なものだ。真理は外の世界にはない。自分以外のどこに求めるのか――という意味の教えです。「本来は、一人ひとりが仏の心を持っている」ということですね。

 つまり、子どもたちは初めからみんな良い「種」を持っているのだから、私たちはそれを育てることに徹すればいいのではないかと思うのです。もっと本質的に表現するなら「子どもたちを信頼すること」だと言えるでしょうか。学業成績が上がらずストレスが溜まるときもあるでしょう。つい、良くないことをしてしまうときもあるでしょう。そのようなときでも、いえ、そのようなときこそ彼らの「種」を信じるのです。

素晴らしいお考えだと思います。しかし理想的であるがゆえに、口で言うほどたやすいことでもないのでしょうね。

 そうかもしれません。とにかく私たちにできるのは「待つこと」でしょう。何度も申しますが、種は子どもたちがすでに持っているのですから、私たちにできるのは水を与えることだけ。その種が花を咲かせるのはいつになるかはわかりません。大人になってからということもあるでしょう。たとえ花を咲かせる瞬間を見ることができなくても、私たちは水を与え続けるのです。人には自分で育つ力があるのですから、間違っても「自分がこの子を育てた」などと驕らないこと。(教員が)何でも全部やってしまわないようにすることが、教員としての重要な資質であると思っています。そのためには過干渉になりすぎず、かといって放置しすぎない、バランス感覚が必要になってくるでしょう。
 
 「花を咲かせる瞬間を見れなくても」とは申しましたが、時折、社会に出た教え子たちと再会することがあります。皆、立派な大人になっており「待っていて本当によかった」と実感することも多いですね。

「大きな船」の一員として利他の心の大切さを伝えたい

屈指の進学校としてのイメージも強い貴校ですが、心の教育を重視するうえで大切なことは何でしょうか。

 おかげさまで、学業面に秀でた能力を持つ生徒たちが多いのは事実です。社会でも立派に活躍してくれるものと信じています。しかし、だからこそ、その恵まれた才覚を活かして、「他者を助けられる人間になる」という価値を伝え続けたいです。

 「自利利他」という言葉があります。仏教用語で、自らの悟りのために修行して得たことを、他者のために使うという意味です。本校での学びも、まさにそれだと思います。自己満足、換言すれば自分の利益のためだけに学ぶような、小さな人間になってほしくないのです。

 知識やスキルの習得は最終目的ではなく、手段です。しかしそのベクトルが、自分にだけ向いているようでは悲しいことだと思います。ともすれば現代社会には「自らが学んで(勉強して)得たことは、自らの利益に帰する。すなわち、自分を利するための所有物である」かのような価値観もありますが、本当にそのような教育でよいのでしょうか。

 大乗仏教(仏教の二大流派の一つで、同校の根幹である真言宗もこれに含まれる)では、「人間は皆が一つの大きな船に乗っている」という考え方があります。困っている人を助けて大きな船全体の利益を考え、学びを社会に還元できるような、まさしく「大きな人」になってほしいですね。

自分が「大きな船の一員」であることや、利他の心に目覚めるために、学校として具体的にどのようなアプローチをなさっていますか?

 協力・協働したり、思いやりを学ぶための機会としています。また「自分でやる」という自立心や、その自立的な行動を集団のなかで実践する力を磨くことも目的としています。現在は、中1でスキー合宿(長野)、中2で登山合宿(立山)、中3では研修旅行(沖縄)で民泊を実施しています。近年は民泊行事を採用する学校も増えていますが、本校では約20年前から実施しておりましたので、歴史は古いと言えるのではないでしょうか。

 そのほか、仏教の法話など、「よい話」にできるだけ多く触れる機会を作っています。そのために、私自身も仏の教えに関する勉強を、日々重ねているところです。そうした話を聞けるという経験も一つの縁だと思いますし、この「縁」を大切にしたいですね。

 「よい話を聞く縁」という意味では、職業教育も重視しています。実際に社会の第一線で活躍している人たちからレクチャーを受け、自分の将来について考えるものです。講師を卒業生が務めてくれることも多く、その顔ぶれは医師や大学教授、起業家などさまざまです。

 ちなみに本校の同窓会内では分科会が作られています。たとえば「医療分科会」というものがあって、そこから講師の人選ができるのです。

時代の求めに応じながらも原点を見失わないように

進学校としての現在の貴校に至るまでに、大きな学校改革がありましたね。

 現在は、東大や京大などへ進学する生徒が増えていますが、昔は本校から大学へ進学する生徒は多くありませんでした。しかし根底にあるものは変わりません。仏の教えに基づき「命を授かったからには、それを思い切り使いなさい」ということだけです。その考えは、勉強だろうとスポーツだろうと同じです。学校として東大や京大に受かることを目的としているわけではありません。進路実績はあくまで結果です。

まさに「大きな船」に乗った「大きな人」ですね。

 そう言えるかもしれません。先ほども申しましたが、Society5.0の時代が到来するとか、AIの台頭とか、現代社会には大きな変化の波が次々と押し寄せています。その流れに乗ることは大事ですし、目を背けることはできないでしょう。

 しかし、その流れに「合わせにいく」ばかりでなくても良いと思うのです。一つの大きな社会的な方向性に、誰もが右へ倣えで盲目的にそれを追いかけたとしても、急にその流れが変わることもあるわけですから。社会が「○○な人材」を求めているからといって、皆が横並びでそれを目指すような偏った教育には違和感を覚えます。社会に出てからでも遅くない細かなスキルを身につけるよりも、もっと自分の内側から湧き出てくる好奇心や意欲に従った学びに取り組んでもいいのではないでしょうか。特に中学生のうちは幅広い経験をして視野を広げてほしいですね。

今後の学校づくりの方向性やビジョンについてお聞かせください。

 特に「何か新しいこと」を考えているわけではありません。むしろ、教育の原点を見失わないように、教育は「人づくり」であることを忘れないようにしていきたいです。

生徒・教職員一同が、自らの原点に立ち返る日として、弘法大師空海の月命日に行われる「御影供」法要。

プロフィール
校長・堀 俊彦 先生

1952年生まれ、京都府出身。京都教育大学卒業。
「一番身近でかっこいい大人だった」という恩師へのあこがれから、自らも教職の道へ進む。公立中学校で教鞭をふるったのち、母校である洛南高等学校に入職。生徒部長、副校長を経て令和元年より同職。趣味は「街道めぐり」。好きな言葉は「日々是好日」。