1962年生まれ、広島県出身。立命館大学卒。1985年に同校入職、2008年に教頭、2016年に高校校長を経て、2021年より中高校長。好きな言葉は「捲土重来」で、うまくいかないことをひっくり返すのが好き。趣味はドライブと旅行。手品も得意(?)だが、生徒のウケがいま一つなのが悩み。
高校野球の名門で知られると同時に、進学校としての顔も持つ智辯学園。両者の根底には「驚きと感動」という共通のキーワードが流れています。校長の手塚彰先生は「最適化された情報の外にあるもの」こそ、学校が届けるべきことではないか、と語ります。その真意と目指す教育について、熱い思いを語っていただきました。
まずは、先生が教育において大切にしていらっしゃること、理念などをお聞かせください。
ひとことで言うなら「感動を体験し、理解する」ことでしょうか。私は生徒たちに「人を感動させられる大人」になってほしいと思っています。MLBの大谷翔平選手のように世界を感動させることは難しくても、自分の周りにいる家族や友だちを感動させられる人にはなれます。
しかし「感動」は、意図的に他者を「感動させよう」として起こるものではありません。たとえば何かに向かって頑張るひ
たむきな姿に、人は自然と感動しますよね? 「感動」とは何か。その本質を自らの行動で体験し、理解してほしいと思っています。
そのような教育の実践において、現代社会や教育の現状を俯瞰して感じられることはありますか?
よく「AIの時代」などと言われますが、それがあまりにも賢くなりすぎたのかもしれません。昔のインターネットは今ほどアルゴリズムも洗練されておらず、良くも悪くも雑多で広範な情報に触れるものでした。ところが今は最適化が進み、ユーザーの好みに合う情報ばかりが表示されます。すなわち人々の「世界を広げる」はずのインターネットが、逆にとても閉鎖的な空間を作っているとも言えるのです。
以前、大阪大学の先生がこんなたとえ話をしておられました。「大学に行くこととは、大きな図書館の中にポツンと一人で入っていくようなものだ」と。見たことのない膨大な蔵書がズラッと並んでいて、そこでふと目に止まったものに手を伸ばし、知らなかった「知」と出会う…。学ぶとはそういうことだ、という意味です。
このような「知」との出会いは、自分が好きなものや興味のあるものにだけ囲まれている生活の延長線上には、決して存在し得ないものでしょう。もちろん自分の好きなものを追求することは素晴らしいですが、知らないものに触れることも大事です。本来「学校」は、それができる場所なのかなと思います。そういう意味で、もし子どもたちに「勉強は何のためにするの?」と問われるなら、私は声を大にして「驚きと感動」のためだと伝えたい。最初は興味がないことでも、「こんなふうになっているのか!」「こんな世界があったのか!」という驚きと感動に出会えるのが学びだと思います。
それに後押しされて、初めて人は「こんなことがやってみたい」と思うようになるということですね。
そうです。もしその「驚きと感動」がなければ、子どもたちは、最適化された学びと知識のなかでしかものごとを考えられなくなります。仮に、学びの先に社会や職業選択があると考えるなら、たとえば学校の先生やお医者さんなど、自分の知る世界でしか進む道を選べません。世の中には、もっとたくさんの仕事があるのに。
「AIに仕事を奪われる」とかそういう話ではなく、もっと自分の可能性を追求するために、学校は存在すると思います。ですから学校は、今よりもっと「驚きと感動」を用意する必要があると考えます。
先ほど「人を感動させられる大人になってほしい」というお話がありましたが、自らの「驚きと感動」を原動力にできる人だからこそ、他者を感動せしめるのかもしれませんね。
私はいつも、生徒たちに言っていることがあります。「パワースポットみたいな人になろう」と。そこに行けば神秘的で不思議な力がみなぎってくるような場所がパワースポットだと思いますが、人間にも同じことが言えるはずです。「なぜかこの人がいると元気が出る」「一緒にいるとやる気になる」という人っていませんか?
本学園の理事長は常々、「将来、各方面で活躍するリーダーを育てたい」と申しておりますが、私もそれはまさに追求し続けたい目標です。だからと言って、実際にすべての生徒がリーダーになるわけではありません。周囲を支えるポジションで輝く子もいるでしょう。パワースポットのような人が持つ力に、リーダーかどうかは関係ありません。
こんなことを言うと時代遅れだと思われるかもしれませんが、本校の生徒たちには「熱いもの」を持ってそれを他者に伝播できるようになってほしいのです。つまりそれこそが「人を感動させられる人」ということですね。
そのために、学校として何を大事にしていますか?
教員たちには、そうした「驚きと感動」を届けられる授業をつくってほしいと伝えています。毎日ではなくても、数週間、数カ月に1度でもいいので、授業のなかでそれを届けてほしいと。
私もそうでしたが、子どもたちが将来目指したいものに出会う瞬間というのは、「すごい!」に触れたときに動き始めるところがあると思います。たとえば英語の先生が「だから私は英語が大好きなの!」と、英語を学ぶ素晴らしさについて熱く話したとしましょう。そこで何かが生徒の琴線に触れ、「私も英語の勉強を頑張ってみようかな」という気持ちが芽生えるかもしれません。それは決して、単純に英語の教員を目指すという話でなく、世界を旅する人になるとか、国連の職員になるとか、広い視野につながっていくのだと思います。
具体的な取り組みやカリキュラムには、どのようなものがありますか?
本校は「グローバルをまとい、テクノロジーを手に」というキャッチフレーズを掲げていますが、「グローバル」という点で言えば、やはり海外(現地)で感動を「体験」しないとわからないことはあると思います。
そこで、昨年までは行き先が北海道だった修学旅行を、シンガポールとマレーシアに切り替えました。また、希望者対象に実施するアメリカ短期留学や韓国研修も人気です。それに伴い語学力やグローバルマインドも身につける必要がありますので、GCP(グローバル・コンピテンス・プログラム/国際的多様性や世界を取り巻く現状をオールイングリッシュで学ぶ)や、ハングル講座も開講しています。
「テクノロジー」についてはプログラミング学習も進めていますが、やはり2025 年の大学入学共通テストから『情報Ⅰ』が導入されますので(取材は2024年11月実施)、その対応は必要になってくるでしょう。ただ、単に受験対策をするだけでは面白くありません。「驚きと感動」を届けるためにも、(ソフトを使わずに)自分で実際にコードを書いてWEBサイトを制作するなどの授業を取り入れています。
2024年度からグローバル教育の一環として実施している『シンガポール・マレーシア修学旅行』。
基礎学力や大学進学力の向上についてはどのようにお考えですか?
本校では昭和42年の中学校設立以来、いわゆる一般的な進学校の6年一貫カリキュラムを敷いてきました。先取り学習を進めて、高3は入試に向けた演習中心になるスタイルです。しかし、もっと生徒が自分たちでエネルギーを燃やしながら勉強する環境がつくれないかと考えました。たとえば昔は、生徒たちが自主的にグループで勉強会を開いたりしていましたが、近年は勉強に関して必要以上に友だちと関わらない個人主義の雰囲気が強くなっています。「自分は自分」という感じですね。
でも私は、受験は団体戦だと思うんですよ。「大変だけどみんながいるから頑張れる!」みたいな。そこで、そういう環境を意図的に学校の中につくってしまおうと、6年前に改革を行いました。具体的にはコース内でクラス分けをし、最難関国公立大や医学部を目指す『S特別選抜クラス』と、国公立大を中心に第一志望合格を目指す『AB総合選抜クラス』で編成したのです。単に学力で輪切りをしようというのではなく、同じ目標を抱いて切磋琢磨できる集団を作ることが目的でした。ちょうど現在の高3(2025 年春卒業)がその1期生にあたりますので改革の成果が問われるときでもありますし、これから第2章が始まっていくんだなと期待しているところでもあります。
高校から入学する生徒たちには、新たに二つのコースを設けました。一つが『国公立大学進学コース』です。今までなら、途中で目標進路を私立に変えても構わないというスタンスでしたが、できるだけ最後まで国公立大を目指して頑張ります。もう一つが『未来探究コース』で、指定校推薦で大学進学することを前提に、日々の学習と探究学習に力を入れようというものです。
その探究学習の内容が非常にユニークだとうかがっています。
探究学習自体はいまや必修化されていますし、めずらしいものではないでしょう。そこで、本校ならではの探究をしたいと考え、『Gojo Change Project』と銘打って、地元の奈良県五條市の活性化に取り組んでいます。実際に市長さんに会いに行き、市が抱える問題や目指す街づくりなどをヒアリングさせていただき、プロジェクトを立ち上げました。
たとえば五條市にはスターバックスコーヒーの店舗がないのですが、やっぱりスタバって生徒のあこがれなんですよね(笑)。ではこれを五條市に誘致するにはどうすればよいのかとか、そのために他のコーヒーチェーンとの比較を行うなど、研究活動にも取り組んでいます。市にも協力していただいて、近々予定されている大型ショッピングモールの改装等、生徒の意見を反映できないか模索中です。
貴校は高校野球の強豪としても有名ですが、学校としてそれにどのような価値や意義を感じていらっしゃいますか?
もちろん、野球に興味のない生徒だってたくさんいます。それはそれで問題ありません。しかし、学校として野球に力を入れてよかったなと思うのは、プレーする生徒たちと、それを応援し、サポートする生徒たちという形で、全員が同じ目標のもと何かを担える環境を作れたことです。野球を知らない生徒でも、試合の動きに一喜一憂しながらみんなで興奮を共有することは、スタンドに足を運ばないとなかなか味わえない感情です。なぜかすごく元気になります。
つまり「なぜ人は感動するのか」を、生徒たちに理解してほしいのです。先ほどから申し上げているように、応援する側も
される側も「パワースポットのような人」となり、「驚きと感動の体験」をできる一つの重要なアプローチが、本校の野球だと考えています。
先生がそこまで「感動の体験」を重視するようになったのは、何かきっかけや理由があるのでしょうか?
私は数学の教員なのですが、一般的に数学が好きじゃない、苦手意識のある子どもは多いんですよね。でも「実はやってみるとすごく面白い教科だよ」ということを伝えたくて、「数学の伝道師として布教活動をしよう!」と。数学を知っていると、どれだけすごいことができるのか、熱を持って伝えてきました。
そもそも教職を目指されたのはなぜでしょうか?
学校が楽しかったからです。高校生のときは「ずっと高校生でいたい」、大学生のときは「ずっと大学生でいたい」と思っていたほどでした( 笑)。その点で、ずっと生徒たちと一緒にいられる「教員」という職業は素晴らしいですね。私自身が生徒や学生であった時期に、たくさんの「驚きと感動」に出会う体験をしてきました。数学が好きになったのも、当時の数学の先生がそれを教えてくれたからです。そういう感動を、次世代の子どもたちに恩送りしたかったのです。
そうした教育観をふまえて、現代の中等教育全般に対して思うことはありますか?
「個別最適化」という言葉にもあるように、教育においても個人を重視することは大切だとは思います。望めば手に入るものも増えましたし、願えば叶う時代にもなりました。だからこそ、本当に大事なことが軽くなっている部分があるのかもしれないと感じます。
その一つが「感謝」です。本校の教育のキーワードの一つにもなっています。「ありがたい」という言葉は、本来なかった「有り難い」ものがあることに感謝するという意味があるはずです。何でも手に入る便利な現代社会において、本当の意味での「感謝」を子どもたちはどれだけわかっているのか。あなたが手にしているそれは、誰かが一から作り、誰かがあなたに与えてくれたからこそ目の前にあるのであり、決して当たり前のことではないんだ、世の中全体がそういう仕組みであることを理解してほしいですね。
現在、プロ野球の阪神タイガースに所属している前川右京選手が本校の生徒だったとき、県庁で表彰を受けたことがありました。そのとき彼が「感謝しなきゃいけない」とコメントしていたので、私は「偉いな」とほめたんですが、彼はすごく驚いた顔をして「えっ? だって先生、うちの学校、いつも“感謝の心”って言ってるじゃないですか」と。ああ、伝わっていたのだな、とうれしかったです。甲子園出場も、大学進学も当たり前じゃない。そのことを忘れないでいてほしいです。
この先、日本のさらなる人口減少は避けられないものであり、一人ひとりが担う役割も増えていくでしょう。そのような時代においても、常に前向きで感謝の気持ちを忘れずにいてほしいですね。「智辯学園に行けば人生が切り拓けるものに出会える!」という学校であり続けたいですし、10年後、20年後で光り輝けるような教育を提供し続けたいと思います。