
飯山 等先生
1950年生まれ、岐阜県出身。大学卒業後、非常勤の理科教員として同校着任。2016年度より校長職。
「型にはまらず、かつ謙虚であること」がモットーで、生徒はもちろん、保護者や塾経営者に至るまで人望が厚い。
趣味は読書だが、最近は“積ん読”気味なのが悩み。
「学校はいかにあるべきか」――おそらく十人十色の答えがあるなかで、「楽しくあるべき」と強く語るのは、大谷中学・高等学校の飯山等校長。事実、その校風が高く評価を受け、毎年多くの生徒が入学する人気校となっています。しかし、なぜそこまで「楽しさ」を重視するのでしょうか。その根底には、人が本来持っている「学びたい」という意欲の喚起に根ざした教育がありました。
はじめに、「教育」そのものを俯瞰して、その意義や価値について先生のお考えをお聞かせください。
教育という字が示すとおり、人は死ぬまで「教え」「育て」られる存在です。いわば、命そのものが「学びたい」「育ちたい」という本能的・内発的な欲求を持っていると思うのです。ならば命自身が、その欲求に気付くのが「教育」ではないでしょうか。
ところが現代の教育は、いつの間にかその内発性をどこかに置き忘れてきたようにも感じるのです。地球に生命が誕生して38億年。脈々と受け継がれてきた根本的な命の欲求に不要なバイアスをかけているとも言えます。つまり、外発的に植え付けようとしているんです。
たとえば赤ちゃんが初めてつかまり立ちをするとき、教えられてできるようになったわけではないですよね。「立ちなさい」と指示されたわけでもありません。まさしく根源的な欲求であり、すべての人はそれを持って生まれてきます。なのに、命が「学びたい」「育ちたい」と気付く前に、「これを教えなくては」「このように育てなくては」という上げ底的なものを、教育と称して押し付けている。そんな印象があります。
なぜそのように思われたのですか?
「お疲れさま」という言葉です。私たちも日頃から、あいさつ代わりに何気なく使っていますよね。しかし、この「お疲れさま」という言葉は、いつから“あいさつ”になってしまったのでしょう。
実は、ある驚く光景を目にしたことがあります。たまたま近所の小学生たちの下校シーンに出くわしたのですが、彼らは「お疲れさま~」と言って友だちと別れたのです。
私は、猛烈な違和感を抱きました。「小学生が友だちと別れるときに交わす言葉が『お疲れさま』って、いったいどういうことだ!? 『楽しかったね』『明日も頑張ろうね!』ではなく、『お疲れさま』とは……」。
「お疲れさま」という言葉自体は相手をいたわるニュアンスを持ちますから、その気持ちを否定するものではありません。だとしても、いえ、それならなおさらのこと、こんな疑問も湧いてきます。「子どもたちにとって、学校は『疲れる場所』なのか?」と。私にも幼い孫がいますが、公園で遊んだあとに「お疲れさま」なんて言いません。「あー、楽しかった!」と言って家に帰ります。学校という場も、教育も、かくあるべきではないでしょうか。
思えば、大人もそうかもしれませんね。
ええ。教員も、いろんな研修会に出てはさまざまな方と出会い、あいさつをする機会があります。しかし誰もが決まって「お疲れさま」と口にするのです。そんなとき、私はこう問いかけます。「みなさん、この研修会はそんなに疲れるものですか? 研修で学びを得て、人と交流をして、本来ならエネルギーをもらえるはずなんです。だから『お疲れさま』と言わずに帰りませんか?」と。
家庭も同様です。仕事から帰ってきて、さも「私がいちばん疲れている」という顔でドアを開けていないでしょうか。子どもたちに「大人になるって、疲れることなんだ」という印象を刷り込んでいないでしょうか。それではいったい誰が「育ちたい」なんて思えるのでしょうか。結局、大人自身が学校も仕事も「疲れるもの」という前提認識に立っているから、こんなことになるのだと思います。
改めて強く思いますが、やはり「お疲れさま」という言葉に、教育の営みはありません。疲れるのならやめておいたほうがいい。あいさつもいっそのこと「あいうえお」とでも言っておいたほうがマシではないか、と思うくらいです。
最初に申しましたように、命は本来、もっと「学びたい」「育ちたい」、あるいは「生きたい」「楽しみたい」という本能を持っているはず。なのに、市場経済主義的な社会の求めに応じて「学ばせたい」「育てたい」を押し付けてしまう。私は「それは何か違うよ」と伝えたいのです。
貴校は、生徒が「学校が楽しい!」と言えることを大切にすると明言しておられます。その根底に、こうしたお考えがあるのですね。
そのとおりです。私はときどき、生徒たちにこう語りかけます。「みんな、最後にスキップをしたのはいつだった?」。
生徒たちの飛び跳ねたくなるような気持ちや、湧きたつような喜びに封をしないと、学校としてやるべきことができないなんて、そんなのおかしいと思いませんか? このような考え方が、学校を含めて“教育”そのものを、底の浅い、白々しいものにしているように感じます。それはある意味で“洗練”と言えるかもしれませんが、その過程で削がれたものがあるはず。私はそれを忘れずにいたいのです。
社会や学校、大人が決めた「こうあるべきだ」という型に子どもたちをはめ込んでいるのでしょうか。
そう感じます。私は、もっと自然な命の姿を追求したい。「生きるって楽しいね」「みんなでやるって楽しいね」、そうした思いを届けられる場所が学校でありたいし、それこそが教育だと信じています。
実は、私の娘も本校の卒業生です。その娘が、大学に入ってからできた友人たちとの交友のなかで、しきりに「不思議やわ」と言うんです。聞けば、友人に「学校(中高)って、そんなに楽しかった?」と言われたとか。娘からすれば、学校は楽しくて当たり前という感覚で育ったので、友人の考えが理解できなかったのでしょう。
すごく楽しいことがいっぱいあって、課題や壁があってもそれを乗り越えた先に生きる喜びを感じられて……私は、やはりそれが学校だと思います。
しかし、「楽しいだけではダメだ」という指摘はありませんでしたか?
もちろん、楽しければ後はどうでもよいなどとは思っていません。以前は「大谷は面白い学校だけれど、勉強のほうはちょっと……」という声があったのも事実です。ただ、勉強は大切にしますが、そのために原点である「楽しさ」を削ぎ落とすことだけはあってはならない、それでは学校の意義が果たせない、と思います。繰り返しになりますが、本来、命は学ぶことを「楽しい」と感じる内発性を持っているのですから。少なくとも、学校が勉強を苦役のように位置付けてはいけないと考えます。
そのための具体的な取り組みなどはありますか?
学習の制度面に関して言えば、本校では一般的な教務・進路指導・学習指導の三つの部署をまとめ、『学習支援センター』と称しています。生徒の学校生活全般をサポートする『生徒支援センター』もありますね。大切にしているのは“指導”ではなく“支援”であること。生徒たちは学校をいきいきとしたものにしたいと思って通学しているのですから、それを応援するのが学校であるという考えからです。
もちろん、名前だけの問題ではありません。たとえば大学進学であれば、40もの大学を招いて学部学科説明会を開催しています。やはりこれも根底は、生徒の「学びたい」という気持ちに点火したいからです。
また昨年からは『学習支援コーディネーター』も設置しました。自習室での学習支援を行うのがその役目で、担当教員がフルタイムで常駐するようにしています。
大学進学については、生徒に「ここを受験しなさい」といった指導は基本的に行わないそうですね。
困ってしまうくらい、まったくないんですよね(笑)。たとえば、こんなこともありました。国公立などの難関大学進学を目指す『バタビアコース』のなかでも、特に学業優秀だった生徒がいたのですが、その子が「専門学校に行きたい」と言うのです。
もちろん専門学校がダメだとは思いませんが、大人目線で見たとき、これだけの力量があればもっと難易度の高い大学を目指せるのに、と思ったことは事実です。それでもその生徒は「私がやりたいことはこれだから(専門学校に行く)」と強く言い切ります。
圧倒されたとでも言えばいいでしょうか、その子の圧力、「学びたい」という熱量に押され、喉まで出かかった「国公立大学を受験してはどうか」という言葉を飲み込みました。
学校のマネジメント的なことを考えても、国公立大学に進んで進学実績を残してもらえればアピールになります。しかし、その生徒がそのように言えたこと自体が実績、すなわち大谷の教育を体現していたように思うのです。実際には難関大学への合格者も多数いますが、その数字だけを見て評価される学校にはしないぞ、と改めて強く感じたできごとでした。
貴校では、進学実績を大学の難易度や知名度順に並べないそうですね。
そうですね。便宜上、わかりやすくするために国公立大学や関関同立クラスの進学実績をとりまとめたデータも掲載はしていますが、合格実績一覧ではそうした要素は一切ありません。日本の北(北海道)から順番に南下する形で、国公立大学から専門学校に至るまで、すべての進学先を掲載しています。
ただ、以前は一般的な難易度や知名度優先の掲載方法を取っていました。実はこれが変わったのも、ある生徒とのエピソードがきっかけなんです。
その生徒の進学先は、客観的には決して難関と呼ばれるような大学ではなく、進学実績として広報物への掲載はしていませんでした。しかしその生徒にとっては、心から入学を望んだ第一志望校。その生徒はこう言ったんです。「先生、僕の進学した大学が進学実績に載ってないです……」。
もう、あまりにも申し訳なくて、胸が詰まる思いがしました。慣例的にそうしていたとは言え、その子が命の根源たる欲求として「学びたい」と思った大学を、私たちは「実績として評価するに値しないもの」として扱ってしまったのです。心から詫び、猛省してすぐに改めるようにしました。同じ理由で、本校では校内に大学進学実績を貼り出すこともしません。
では最後に。どうして貴校の生徒たちは、学校が楽しいのでしょうね?
「これをしたから楽しい」というノウハウで語れるものではないと思いますが、私自身を含め教員が「会うのが楽しみ」と思ってもらえる人間であるようには心がけているつもりです。生徒からは「校長先生は、いい意味でなれなれしい。こんな校長先生は初めて」とよく言われます。
個人的には、さまざまな機会で、よくある「校長の話」っぽい内容は、できるだけ避けています。授業に注ぐ教員たちの情熱に応えられるよう、私の大切な役割と考えて臨んでいます。おかげで「今日の校長先生はどんな話をするのか楽しみ」と言ってもらえるようになりました。まあ私は話が長いので「でも、お願いだから短くして」という条件付きですが(笑)。それでも、こういう雰囲気や生徒との距離感を大切にしたいと思います。
学校を再開してほどない昨年6月のある日、3月に完成したものの生徒が登校できずに閑散としていた智身館アリーナにようやく待望の生徒の声が響き始めた頃、クラブ加入を考えている生徒でしょうか、放課後の練習のようすを見学していた新入生と思しき生徒二人が、アリーナ2階の走路で同じようにクラブ活動のようすを見ていた私を見つけて駆け寄ってきて、「校長先生、学校めっちゃ楽しい‼」と満面の笑みで思いを伝えてくれました。以来そのひとことが、日常の学校生活のあり方、クラブ活動や研修旅行、学園祭などの実施の可否や形態の変更など、さまざまな問題について初めて考えることが次々とやって来るなかで、どのようにするかを考え決定する折の、常に不動の一点として私の胸にあり続けています。
「大谷は楽しい学校だ。なぜかはわからない。でも楽しい」と、最近は、そのような声もよく耳にするようになりました。そのとき、私はいつも思うんです。「ああ、本校は学校としての務めを果たせているな」と。