Profile
髙原健治 校長
1966年、福島県出身。地元の公立中学校から、日本大学東北高等学校に進学。中高では柔道部に所属していた。高校卒業後、日本大学理工学部物理学科に進学。柔道を続けながら、教員免許を取得。卒業後、佐野日本大学高等学校に数学の教員として着任。柔道部の顧問を務める。2023年4月、同校の校長に就任。
1966年、福島県出身。地元の公立中学校から、日本大学東北高等学校に進学。中高では柔道部に所属していた。高校卒業後、日本大学理工学部物理学科に進学。柔道を続けながら、教員免許を取得。卒業後、佐野日本大学高等学校に数学の教員として着任。柔道部の顧問を務める。2023年4月、同校の校長に就任。
髙原健治 校長
私は福島県の三春町で生まれ育ちました。三春町は、阿武隈山地の裾野にあり、日本三大桜の「三春滝桜」で知られた町です。この豊かな自然に恵まれた地で、私は小学生の時に習い始めた柔道を中学まで続けました。
そんな私が教員をめざした背景には、中学や高校でお世話になった素晴らしい先生方との出会いがあります。一人が私の担任を務めてくださった国語の先生でした。その先生は、生徒の気持ちを大きく揺さぶるような熱い指導をしていました。先生がホームルームの時間を使い、“友情や助け合うことの大切さ”を説いた時は、全員が涙を流したものです。
中学時代の好きな科目は理科でした。水の電気分解や陰極線などの実験に刺激を受け、さらには理科の先生のていねいな教え方もあって、理科が得意科目になったのです。
ある日、私はアインシュタインの相対性理論を解説したNHKの番組を観て非常に感動しました。その時から私の関心は化学から物理に移っていくとともに、理科がますます好きになっていったのです。次第に私は将来、理科の教員になり、担任の先生のような“人間教育”ができたらと思うようになっていきました。
日本大学東北高等学校に進学すると、人生を大きく変えることになった恩師と出会います。その方は、私が入部した柔道部顧問の先生でした。先生は柔道だけでなく、学習面においても私を厳しく指導してくださいました。試験の成績が下がると「髙原の力は、こんなものではないだろう!」と叱咤激励してくださったのです。
この先生のおかげで、私は勉強と部活動を両立させ、高2の時にインターハイと国体に出場できました。そこで私はこの実績を活かして推薦入試で大学に進学し、「将来は体育の教員になろう」という考えが頭に浮かびました。その思いを口にすると、先生は「体育ではなく、理科や数学を教える教員になって、生徒に“学びの楽しさ”を教えられる教員になったほうがいい。柔道は部活動で教えればいいのだから」とおっしゃったのです。
柔道部では年に数回合宿があり、先生と部員が寝食をともにする機会が多くありました。先生の教科は保健体育でしたから、合宿中に他教科の勉強を教えたくても、自分の専門分野ではないため教えられないというもどかしさがあったのでしょう。先生は「私ができないことを髙原がやれ! 髙原ならできる!」と背中を強く押してくださったのです。
恩師の思いに応えようと、私は日本大学の理工学部物理学科に進み、教員免許取得をめざしました。1年生の間は勉学に勤しみ、2年生から理工学部柔道部に入りました。なお、卒業論文は『相対性理論に基づく宇宙論』をテーマに執筆しました。
大学卒業後、本校に赴任して数学の教員になり、柔道部の顧問を務めました。恩師の言葉通り、私は夏休みなど部活動の練習が終わると生徒を自宅に招き、食事を用意して宿題や勉強をさせ、わからない箇所の質問に答えていました。
こうした教員生活のなかで学んだことは、“高い目標や大きな夢、志、揺るぎない決意を胸に抱いて挑戦することの尊さ”です。例えば私が若い頃に、こんな生徒との出会いがありました。私が2年間担任を務めた生徒です。彼は毎日のように遅刻して、成績も最下位でした。そんな彼が高3の時に私のもとへ来て、「もし僕が東京工業大学に合格したら、学校の歴史に名前が残りますか?」と聞いてきたのです。私はいつも生徒たちに「どんなことでも、ゼロからスタートでも、遅くはないんだよ」と語っていました。彼はその言葉に触発されたようです。私は「もちろん歴史に残るよ」と言い、数学の最も難しい問題集を1冊渡して「これをやりきったら、合格できる可能性が見えてくるよ」と伝えました。
以来、彼は半年間、猛勉強に励みました。その結果、東京工業大学には受かりませんでしたが、最難関私立大学の理工学部に現役合格したのです。彼はその大学を卒業してから大学院に進みました。そして修了した後、私のところに「就職が決まりました」と挨拶に訪れました。ところがすぐにまた挨拶に来て、「仕事を辞めて医学部を受験します」と言い出したのです。後で知ったのですが、彼は小児科医が不足していると知り、自分が小児科医になって子どもたちのために力を尽くしたかったそうです。
その後、彼は国立大学の医学部に合格を果たし、現在は小児科医として社会に貢献しています。彼は当初の目標である東京工業大学への合格こそ果たせませんでしたが、“小児科医になる”というさらに高い目標を達成したのです。私は彼の話をよく生徒たちに語りました。その話は多くの生徒たちを勇気づけたり、自信を与えたりしました。
人間は高い目標を掲げ、そこに向かって挑戦するからこそ、能力が大きく引き出されるのです。本校の生徒たち、そして本校をめざす高校受験生の皆さんには、大きな夢を描いて、失敗を恐れず、失敗を繰り返しながら、その夢を諦めることなく実現に向けて挑戦を続けてほしいと思います。挑戦によって視野も広がります。「次は何に挑戦したらいいのか」「そのために何を課題とすればいいのか」「自分に何が求められているのか」が鮮やかに見えてくるはずです。ここから豊かな創造力も生み出されるでしょう。
これは勉強だけでなく、部活動にも通じることです。本校には甲子園をめざす野球部員もいれば、全国大会をめざすサッカー部員もいます。今年は野球部員が一般選抜で筑波大学に現役合格を果たしました。また、サッカー部員が1年間浪人して山形大学の医学部に合格しました。教員たちは「ほかの学部も受けたほうがいい」とアドバイスしましたが、「私の夢は医師になることなので、医学部だけに挑戦したい」と背水の陣で受験に臨んだそうです。2人とも部活動で培ったチャレンジ精神や忍耐力、集中力を大学受験に活かしたと言えます。
本校の校訓は「自主創造」「文武両道」「師弟同行」です。「自主創造」は日本大学の教育理念でもあります。「自ら学ぶ」「自ら考える」「自ら道をひらく」能力を身につけた人材育成をめざすことを意味します。「師弟同行」とは、教師、生徒が同じ目線で共に高い目的意識をもって学び合い、人生を深めることです。振り返れば、この3つはいずれも私の恩師が教育に注いでいた精神でした。
これからはますます予想困難な時代になり、これまでの知識や経験が通用しなくなると言われています。しかし、どのような時代が到来しても「自主創造」「文武両道」「師弟同行」を実践しつつ挑戦を続ければ、たくましく健やかに生きていくことができるのではいでしょうか。
私は校長として本校を“高い目標や大きな夢をもった生徒がさらに多く集まる学校”にしたいと思っています。そして生徒も教員も切磋琢磨しながら、その夢を叶えるための挑戦がこれまで以上にできる学習環境づくりをしていきたいと考えています。
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